佐々木友次はなぜ生き残った?画像や場所をわかりやすくまとめ!永遠の0のモデル?

佐々木友次はなぜ生きて戻ったか エンタメウォッチ

こんにちわ!ぐるっとです。

8月15日の木曜日の「奇跡体験!アンビリバボー」で「特攻で9回出撃し9回生還した男」として「佐々木友次」氏が取り上げられるそうですね。

特攻隊といっても「永遠の0」みたいな映画などでしか、あまりイメージが湧かないですよね。

基本的に「生きて帰る」ことがなかった特攻隊員であった、佐々木さんがどんな人で、どこでどうやって戦い、生き残ることかできたのかまとめてみました。

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プロフィール

本名:佐々木友次(ささきゆうじ):1945年の終戦時に21才

生年月日:1923年(大正12年)6月27日生まれ

出身と家族構成:石狩郡当別村、農家の6男で、兄弟は7男5女の12人

没年:2016年2月9日に「92歳」で亡くなられました。

2016年2月に亡くなられた佐々木さんですが、生前にテレビ局の取材に応じられて、92歳とは思えぬハッキリとした言葉で体験を話されていました。

スクリーンショット
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どうして特攻隊に入ったの?

実は郵便局養成学校?!

「特攻隊」というのは、佐々木さんが目指したものではありません。

あれは後から作られたもので、佐々木さんは子供の頃から「空を飛びたい!飛行機に乗りたい!」という夢をもつ少年だったそうです。

お父さんも日露戦争を生き抜いた、勇士だったそうです。

そんなお父さんも憧れだったのかもしれませんね。

念願叶って、17才の時「逓信省(ていしんしょう)航空局仙台地方航空機乗員養成所」の試験に合格します。

要は「郵便を運ぶ」部署の、仙台にあった養成校に入学したんですね。

あの頃は「空を飛ぶ」というのも、郵便の手段だったというのがびっくりです。

とはいえ、このころの「逓信省」はすでに「陸軍養成機関」だったそうなので、空の郵便配達人なんて、かわいいものではなかったのですね。

陸軍に配置される

卒業した「佐々木少年」は茨城の「鉾田(ほこた)陸軍飛行学校」に配属されました。

乗っていたのは「陸軍」の爆撃機だった「九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき)」でした!

操縦者・無線手・射手(2名)の計4名が乗れるタイプだったそうですから、なかなか軽い回しが聞かない「爆撃向き」ではないデザインでした。

有名な海軍の「ゼロ戦」に比べて、爆弾を積めないくせに弾に当たると出火する最悪のデザインだと言われていたらしいです。

ですが急降下爆撃の「訓練」中、身長160センチ足らずで童顔の20歳の佐々木さんは「機体を鳥のように操る」大胆で攻撃的な操縦で話題になったそうです。

それは「仙台時代」にたくさん飛んでいたことも理由だったようです。

生き残った理由:飛行機が好き

零戦などで敵機に体当たりしていたイメージの「特攻隊」は志願だったのか、強制だったのか?という疑問ですが、ほとんどが「強制」だったそうです。

しかも、戦況が圧倒的に不利な中、体当たり的な戦法の「特攻隊」というのが編み出されたのは「急降下爆撃」というのがものすごい高度な技術だったからです。

つまり、そこまで腕のいいパイロットを育ててる余裕すらなかったんですね。

飛行機に乗ったことがある人は、わかりますが飛行機って下がっていく時、耳鳴りとか頭が痛くなるじゃないですか?

「急降下爆撃」ってのはゴマ粒みたい見える「戦艦」めがけて、何千メートルを急降下して、当てて帰ってくるわけです。

ただし、戦艦の周りには当然、何百機と敵の飛行機がいる中をかいくぐってです。

「頭の中に血が逆流する」状態で、そんなことできるのは「熟練したパイロット」だけだったそうです。

つまり佐々木さんが生き残ったのは「仙台時代から飛行機の訓練をしていた」という、高い技術力が大きかったんですね。

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生き残った理由:真っ当な直属上司

すごく腕が良かったために、1944年(昭和19年)10月21日鉾田教導飛行師団から選抜され、陸軍第1回特攻隊(万朶隊:ばんだたい)に入ります

そのときのリーダーが「岩本益臣(いわもとますおみ)大尉」でした。

もともと「特攻隊」として編成された「万朶隊」は、そもそも爆撃機でない「九九式」をさらに「爆弾を投下できないよう」改良されてました。

それを現場の整備士で「爆弾投下」できるよう改造させたのが岩本大尉でした。

それは「体当たりで撃沈できると考えてるのは航空の実際を知らないかバカだけだ」と言って「操縦者を無駄に殺すだけで無意味」と思ったからだそうです。

そして攻撃対象も「狙うなら大きな船、小さな船は狙うな」という風に、操縦者に危険がある割にメリットのない行動を避けるように言ってくれたそうです。

まだ「ペーペー」だった佐々木さんが強く信念を持って、攻撃対象を選び、無謀だと思える時は攻撃に出ず戻ってきたというのは「理解ある上司」のおかげでした。

生き残った理由:上司の仇を討つ信念

この敬愛する上司とその他の上官たちは司令官の宴会に呼ばれて、嫌々マニラにいく途中に米軍のグラマン機に撃墜され出撃することなく、なくなりました。

佐々木さんがインタビューで言ってるように、軍隊という巨大な組織の中で「命令違反」するということが、どれほど恐ろしいことだったか。。。

”戦地に行ったら、それは国のためとか、死ねとか言われて上手に考えるけど、そりゃあ悲惨なものですよ、自分というものがなくなるんだからねえ”

上からの命令は絶対で逆らったら「死」という圧力の中で生き延びることは、敵に殺されないで生き延びることに加えて、さらに難しかったのかと思います。

そのプレッシャーの中でも「無駄な攻撃はせず、危ないと思ったら帰還し、爆弾は投下するが体当たりはしない」ということを固く守ったんですね。

それは、上司の仇を打ちたかったからだそうです。

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レイテ湾攻撃で「死人」にされた

1944年11月12日に「万朶隊(ばんだたい)」として陸軍第1回特攻の出撃命令が出てフィリピンの「カローカン」から「レイテ湾」に飛びました。

ほんとは4人乗りの爆撃機に一人で乗って、敵の輸送船めがけて爆弾を投下して、飛び帰ってきたそうです。

岩本大尉が教えてくれたミンダナオ島の「カガヤン飛行場」に着陸して無事に戻ってきたそうです。

例えば、レイテ湾という場所での攻撃の時、新聞では「突撃して敵艦を沈めた!」と発表され国民は大喜びしたそうですが。。。

完全に「プロパガンダ」っていうやつですよね。

勝手に「死人」にされ、戻ってきたら「よく戻ってきた!」じゃなく「なんで死んでないんだ!」って怒られるって、今の感覚だと「狂って」ますよね。

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結局「殺す」つもりで送っていて、天皇陛下に報告して、記事も書いちゃったから「今度こそ死んでこい!」と言って計9回も出撃させられたわけです。

理解ある岩本大尉は佐々木さんのことを可愛がっていたそうです。

上官としても、こんな初々しい、技術力も根性もある部下たちを「名誉のため」などで、無駄死にさせたくなかったでしょう。

その上司が早く死んでしまったからこそ逆に「絶対仇を討つ!」と思えて、冷静になれたのかもしれません。

永遠の0のモデル

「妻のために生きて帰る」という、主人公も「弱虫」と罵られながらも、何回も生き延びて、部下を守ったり、無理強いをする上官に立ち向かったり。。。

佐々木さんに似ているような気もします。

でも違ったのは佐々木さんの場合、純粋に空が好きで飛行機に乗るのは大好きだったこと。

飛行機に乗っている時は、戦争の悲惨さも、嫌味な上司も、忘れられたんでしょうね。

岩本大尉と出会ったことで佐々木さんも、飛行機乗りの技術を無駄にするような司令官たちに立ち向かっていく勇気が生まれたのかもしれません。

ということで、「生き残るために周りの非難を耐えた」ことは一緒でも「理由」が違ったみたいです。

おわりに

「特攻隊」というと「お国のために若い命を散らした」という「美談」で語られることが多く「愛する人を守るために死んだ」みたいイメージってあります。

でも実際は「現場の状況もわからない無意味な司令」であり、ちっとも美しくもなんともなかったんですよね。

戦争って随分昔のことのようですけど、今でもアホらしいことに税金を使ったり、無意味な仕事の押し付けがあったり、会社のために命をすり減らされてたり。。。

軍隊と兵隊の関係と会社と社員の関係って、戦後70年経ったのに全然変わってませんね。

ほんと佐々木伍長のように「勇気と信念を持って馬鹿馬鹿しい命令にはNO!」と言えるようになるべきですね。

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